ロエスレル商法草案


ロエスレル商法草案

①日本のコーポレートガバナンスは監査役制度の強化の歴史ともいえる。
②戦後大幅に強化された監査役の機能であるが、そのアイデアは既に明治時代のロエスレル商法草案にその原型を見ることが出来る。
③グローバルな競争力を持つためには、取締役会自体の機能強化が必要不可欠である。

明治時代、公法顧問として訪日したヘルマン・ロエスレルは、大日本帝国憲法作成や商法草案作成の中心メンバーとして活動したことで有名です。特に彼の提出した「日本帝国憲法草案」はそのほとんどが受け入れられ、大日本帝国憲法となったといわれています。
一方、商法に関しては紆余曲折を経ることになります。明治23年に1064条からなる旧商法が公布されますが、東京商工会の施行延長論をはじめ、実業界から多くの反対意見が沸き起こります。結局、帝国議会でも施行延長案が通過し、梅謙二郎らを起草委員として、新たな編纂が行われ破産法以外は全面的に見直した新商法が明治32年に施工されます。ロエスレルの構想とその後の変遷を監査役制度を中心に見てみることは、日本のガバナンスの問題を考える上で大変参考になります。

ロエスレル商法草案における監査役会制度
ロエスレルは商法草案の中で、構成員を株主3人から5人とする「監査役会」制度について述べています。これは公益事業を営む大企業において株主のために経営監視を行う任意機関としています。その具体的な内容は現在の制度との共通点が多く見られます。
監査役の具体的な職務とされたのは主に以下の3つです。(1)取締役・取締役会による業務執行の常時監視と過誤・不正の検出、(2)計算書類の検査、(3)臨時株主総会の招集。
(1)の業務執行の監視は、監査役の各自が単独で情報収集権を行使しうるとされており、監査役全員の意見一定を前提としつつも、意見が分かれた場合には両論を併記し株主総会に報告すべきとされています。これは、平成5年の商法改正の監査役の独任制の考え方と同様です。
(2)計算書類の検査に関しては監査役の基本的な業務として、用語や範囲は変化しつつも現在まで引き継がれています。
(3)の臨時総会招集権は取締役解任などについても監査役のイニシアティブで決定できることを意味していましたが、実質的には行使されることもなく、昭和25年の改正で削除され、今日に至るまで復活することはありませんでした。

また、取締役会との関係では、善管注意義務も含む違法性監査は監査役会の権限、一方、業務執行の妥当性判断は取締役会の専権であるとしています。また、監査役会の過度な経営干渉を避けるため取締役に対する業務執行の差止権は認めていません。これは一見、昭和49年の商法改正で監査役の取締役の違法行為差止請求権を決定したことと異なっているようにも見えます。しかし、取締役の業務執行を法的に差し止めるということは、ある意味で業務執行行為とも言えることから、監査役の業務は業務執行の監査役であるということに純化しているとも捉えられています。

株主総会との関係では、監査役は株主総会で株主から選任されます(解任の規定はありません)。取締役の選任・解任権は株主総会が握っていますが、監査役会は取締役による経営を監視し、違法な業務執行があった場合には定時総会あるいは必要に応じて臨時総会を招集し、株主に報告、解任決議などを求めるという仕組みになっています。つまり、監査役会は株主から選ばれた株主のための経営の監視役であり、取締役会の人事権を持っているのは株主総会であるという考え方です。これは、ドイツのように株主総会で監査役を選任し、監査役会が取締役の選解任を行うといったモニタリング型のモデルとは異なります。また、草案の起草当時には会計専門的による会計検査は世界的にも法制化されていなかったことから、そこには触れられていません。

ロエスレル商法創設の背景
この様に、現在でも通用する部分が多い、先進的な内容を持ったロエスレル商法草案ですが、どのような背景でなぜこのように当時としては先進的な内容のものになったのでしょうか。
明治時代の法典編纂は、幕末に欧米先進諸国との間で締結された不平等条約の改正、特に治外法権の撤廃という目標を達成するために行われています。外国から領事裁判権を取り戻すため、諸外国が日本の司法権に服するよう説得するためには、なんとしても裁判制度の近代化および、近代的諸法典の整備が不可欠なものだったわけです。
したがって、明治政府は日本の慣習法を中心とした法整備ではなく、欧米に条約改定の理解を得るためにあくまで西洋式の法典の継受を指向します。そのため、日本古来の法の集大成ではなく、様々な国の諸制度を寄せ集め新たな法を創造するというやり方が採られます。
商法に関しては、明治以降の産業育成により会社法なき会社が多数出現したことで、それが破たんした場合の責任の所在も明確でなく経済社会に大きな影響を与えていました。その様なことからも商法の編纂は緊急の課題だったわけです。その様な背景を持っていたため商法の編纂にあたっては、外国との通商に適用されることを念頭に置いており、特に外交交渉の相手として重要であったイギリス・フランス・ドイツなどの法を幅広く参照し、それを取捨選択し組み合わせることによって起草しています。

ロエスレル草案の変質
さて、ロエスレルの草案は「外国法100%、国内法0%」という極端な方法となっています。このようなやり方は発展途上国においてはよく見られる方法ではありますが、当時の日本の現実からはあまりにも乖離しており、複雑かつ難解で、さらにドイツ語で書かれていたことから、翻訳審議の過程でかなりの変容を余儀なくされます。ロエスレル商法草案が脱稿したのが明治17年ですが、旧商法が公布されたのは明治23年、それも8ヶ月で施行延期となり、会社法・手形法・破産法など一部が施行されたのが明治26年、新商法として施行されるのは明治32年と完全施行までなんと15年の月日を要しているのです。その間様々な変容がありましたが、まず明治23年の旧商法では、監査役の設置は草案では任意となっていましたが、それは強制とされたものの、「監査役会」という文言はなくなり、合議体性が失われます。また、初の一般会社法として施行された明治26年の旧商法一部施行(会社・手形・破産)に際して、業務執行の監視につき、取締役の任務懈怠の検出という文言が削除されました。
また、明治32年の新商法では、株主総会を株式会社における最高かつ万能の意思決定機関としています。取締役については、株主総会において3名以上を株主の中から選任するとしており、会社の業務執行に関しては定款に別段の定めなき場合には取締役の過半数を以て決定することとされています。監査役は業務監査・会計監査を行うものとしており、会社の意思決定の基本構造は、会社の基本的意思決定を行う株主総会、業務執行及び会社の代表者としての取締役、その業務執行及び会計監査を行う監査役の3機関とされました。
しかしながら、小規模な会社の負担に鑑みる観点から監査役は1人でも可となり、取締役とのなれ合いを防止する観点から任期が2年から1年に短縮されます。結局、ロエスレル商法における監査役の役割の柱であった、業務執行の監視、計算書類の検査と言う文言は姿を消し、「取締役が株主総会に提出せんとする書類を調査し株主総会にその意見を報告することを要す」など役割が中途半端になります。そして、実態としては単に「監査役」という名称が残るだけになるのです。
つまり監査役制度は、株主利益の保護の観点から取締役と同格の手段として考え出された訳ですが、立法面ではその存在感を打ち消す方向での修正が行われ、実施的に機能するのが難しくなります。ここでの変更は現代にいたるまで日本企業において監査制度が業務執行のライン外とされ、その定着が遅れる起点とも言えるのです。

では、なぜそのような修正が行われたのでしょうか。これには実業界の考え方が大きく影響しています。
江戸期の商家の伝統では主人・番頭の経営に内部者が口を出すという発想はありえず、明治以降に登場する近代的経営者の間でも、支配人を支える社長のみが有用であり、その他の取締役(非常勤が多い)は無用、ましてや監査役は経営の妨害になるという意識が強かったと言われています。
実務的にも、取締役が作成した書類に形式的に判をつくだけであり、業務執行の実質を調査し、進んで過誤を指摘しこれを匡という発想はなく、その様な事は職務の範囲外という意識が強かったとされています。

この様な事では当然実効性はありません。様々な不祥事が発生しますが、特に明治42年の大日本精糖汚職事件では、監査役の無為無能が指摘され、監査役制度の改革が提案されます。その中で提案されたのは、イギリスの会社法に倣った、公認の計算専門家による計算書類の審査、常勤監査役による組織的監査、社外監査役の強制、監査役会の導入など、戦後になって逐次実現する改革が既にアイデアとしては提案されています。
しかし、このような提案に対して、産業界からは社外監査役の強制は虚栄にすぎず、無能な高齢者や古手の官史は最も監査役の任に適していないという、まるで昨今の社外取締役に対する議論を想起させる警句が出されています。
欧米では、経営自体はプロの経営者に任せて、資本の出し手である株主はその権利を守るために、経営者を監視するための機関を会社の中に設けます。これを、社外役員を中心とする取締役会としたり、取締役の選解任権を持つ監査役会としたりするなど形は様々なのですが、日本では根本的に会社の経営に対して第三者が口を挟むという事に対するアレルギーが強く、株式会社制度の根幹に関わる仕組みが否定されやすいといえます。

戦前の取り組みとしては、明治44年改正において取締役及び監査役の責任の明確化と強化が図られており、会社と取締役の間の関係は委託に関する規定に従う事が求められています。また、昭和13年の改正では株主総会中心主義は維持するものの、取締役および監査役の資格を株主に限定しないこととし、所有と経営の分離を図られています。

戦後における商法の変遷
さて、商法は戦後GHQの指導のもと、機関設計において取締役会と監査役の権限見直しを行っています。まず、重要なのは昭和24年の商法改正案要綱修正案において監査役制度廃止の決定が下されている事です。英文には次のように書かれており、戦前において全く機能不全となっていた監査役制度に代わり会社の会計を検査する機関を設けるように求めています。
To abolish the Kansayaku system and to make provision for an organ to examine the accounts of the company.
ここで、監査役に関してわざわざKansayakuとしていることからもわかる様に、英米では職業的会計士による会計検査機関はあっても、業務監査・会計監査を同時に担うとされる日本の監査役のような概念はなく、特に業務執行の監査に関しては取締役会が担うべきものという発想が強かったからだと考えられます。

さて、ここで求められた会計の検査組織ですが、日本では昭和23年に公認会計士制度が立ち上がったばかりであったため、実質的にそのような事が可能な人材が不足しており、株式会社全般に会計士監査を導入するのは不可能な状況でした。また、これは翻訳の問題でもありますが、会計監査役という言葉を用いたために、一見すると監査役制度の廃止ではなく、単に監査役監査の内容変更のようにも受け取られました。その結果、参議院での審議の中でも「会計監査役」は、従来の監査役が業務監査権を有していたものが会計監査に権限を縮小されたものにすぎず、「会計を通じて業務監査をする機関」という解釈がおこなわれ、「会計監査役」から「監査役」に名称が変更されてしまいます。
また、GHQが求めた本来の趣旨からすると、監査役は経理の専門家が行うべきもののはずですが、その様な人材がいないことから、その様な資格要件は取り入れられず、単純に監査役の業務範囲を縮小した改正が行われることになりました。

次に、取締役会です。そもそも旧商法では取締役が単独で業務執行を決定することは想定しておらず、業務執行に当たっては3名以上とされている取締役の多数決とされていました。それに対して25年商法では業務執行を取締役ではなく取締役会で決定することとしています。これは株主総会の権限の多くを取締役会に移す場合に、取締役単独で業務執行を行うと取締役会の権限が強くなりすぎ、相互牽制の手段として取締役会制度が必要と考えたこともあります。その結果、取締役が代表権を有して業務執行を決定し行うのではなく、取締役会が業務執行を決定し、それに基づき取締役会で選ばれた代表取締役がそれを行う事になります。その後も、取締役会と株主総会の関係に関しては株主総会の権限縮小と取締役の権限拡大を図った改正が行われていきます。

さて、GHQが監査役制度の廃止を求めたのは、取締役の業務執行全般の監督に当たっては、業務執行の外から監督するのは元来無理であり、取締役会制度を作ることで、代表取締役及び業務執行を行う取締役を、それ以外の取締役が監督することを期待しています。したがって、そのような取締役会に期待されている機能が裏切られた場合には、取締役会機能の改革かあるいは監査役の業務監査機能を復活させなければならないという事になり、戦後の日本では不祥事や外圧があるたびに取締役会の改革ではなく監査役の機能強化でそれに対応することになります。

ところが、昭和20年代後半には既に前提となる取締役会制度を取り巻く環境が大きく変化します。昭和20年代前半は株式会社の数自体が少なく、基本的には大企業でした。しかし、昭和20年代後半になると税制の関係で中小企業の法人成りによる会社数が急増、形だけの取締役会が急増します。また、大企業においては取締役がサラリーマンの出世の頂点とされ、取締役の数が激増、階層型の取締役会では取締役会が代表取締役の業務執行を監督することは事実上期待できなくなります。

その結果、昭和30年代には粉飾決算など企業不祥事が相次ぎます。特にサンウェーブや山陽特殊鋼の粉飾決算が社会に与えたインパクトは大きく、監査の強化が立法のテーマとなります。この時の議論では、昭和25年改正以前に戻り、監査役が会計監査だけでなく業務監査を行うものとする案、ドイツの二層型や米国式のモニタリングモデルによる取締役会の業務監督権限の強化も議論されています。しかしながら、日本の取締役会は業務監督権限を持つという組織ではなく、サラリーマンの出世の頂点とされ、事実上代表取締役の業務執行を監督することが出来ない組織となっていました。そのため、業務執行の監督が可能な組織にするためには大幅な機能改革が必要になり、日本の企業文化からすると受け入れる余地はないという判断され、粉飾決算対策で監査役に業務監督権を与えるという対応になりました。つまり制度の改革を監査役限りにとどめ、取締役会への影響を最小限で済ませる対応であったと言えます。
しかしながら、この場合、取締役会と監査役の監督権限のすみ分けが問題となり、監査役は適法性監査、取締役会は妥当性監査という解釈論的振り分けがなされます。これは、ロエスレル草案での切り分けと同じですが、戦前は一切顧みられて来なかった議論であり、それも監査役制度が戦前には全く機能していなかった証左と言われています。

昭和49年の商法改正によって、監査役は取締役会への出席・意見陳述権が与えられ、取締役会のオブザーバーとして出席することになります。本来の監督機能からすると並列的な関係にある取締役会と監査役が取締役会の席を同じくするという実務的な意味での一元化を行う事で、監督権限行使の面では、監査役を「議決権なき取締役会の構成員」といえる地位に引き上げたわけです。ただ、当然のことながら、これまで機能していなかった人が権限を与えられただけで本当に機能発揮できるのかという疑問は残されたわけです。

戦後の取締役会・監査役会改革におけるもう一つの要素は外圧です。日米貿易摩擦の対応としての「日米構造協議」において日本の会社法のあり方が問われ、株主の権利拡充の具体策として、社外取締役からなる監査委員会の設置が要求されています。
それを受けて、日本サイドでは社外取締役の導入が検討されていますが、日本の産業界からは適当な人材がいない、取締役会が形骸化する、時期尚早である、現在の監査役の機能でまかなえる、会社の自治に任せれば足りるという様な意見が出されています。当時は、日本的経営は効率的であるという認識が強かったため、その根幹である終身雇用とその頂点にある取締役会のあり方自体を問う事になる社外取締役の導入には否定的だったわけです。
そのため、日本側から米国側への回答としては「米国には監査役制度がないが、それを日本の制度に引き直してみると社外者が要求されるのは、取締役ではなく監査役である」として監査役に社外者を加えることで理解を求めます。これはある意味、会社の従業員にとって最も大事である取締役会の改革は行わず、取締役会にとって直接の影響を及ぼさないと考えられる監査役のポストを1名分差し出すことで時間稼ぎをしているようにも見えます。結局、平成に入ってからの改正で、監査役制度は人数・任期・社外要件の厳格化など強化の一途を辿ります。その結果、日本は明治時代に既にあったアイデアを100年かけてやっと実現したわけです。
しかし、長期にわたって無機能な状態が続いてきた監査役制度を隠れ蓑に取締役会改革を避けてきたツケは大きく、グローバルでビジネスを進めていく上でも取締役会についてもグローバルスタンダードに合わせていくために、その改革が避けられないと言えるのでしょう。

さて、今回は明治時代から現在に至るまでの監査役会及び取締役会の推移を見てきました。旧商法創設当初の株主は少数の資本家であり取締役も株主でした。そのため、企業価値向上という点では大株主と取締役の目的は完全に一致していました。したがって、取締役=経営者であっても問題は生じなかったわけです。しかし、株主数の増加によって所有と経営が分離した後も、取締役=経営者であり経営者をチェックする機能を果たすべき監査役や非業務執行取締役という考え方はなかなか受け入れられず、株主目線での経営監視機能がない状態が続きました。過去の経緯を振り返ってみると、取締役会は取締役の激増とその階層化により果たすべき役割を果たせず、監査役は当初から業務執行ラインの外として本質的には重視されなかったという問題があったことが分かります。




 

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